[Staff Recommend] ヨルシカ – 「だから僕は音楽を辞めた」レビュー

とあるネットのつぶやきだったか、記事だったか、どこでみたかは忘れてしまったけれど「だから僕は音楽を辞めた」という名のCDが発売されることを知った。音楽のアルバムではおおよそ聞くことのないであろう単語の並びになんとなく、心が揺れたことを不思議に強く覚えている。

今回は以前より文学的表現の魅力溢れる楽曲を発表し続けてきたn-bunaと、透明感のある歌声を持ったsuisを迎え入れ結成したバンド、ヨルシカが満を辞してリリースする作品。かつそれが初のコンセプトアルバムだというのだから、ワクワクしないはずがない。
彼らが手がけたそれは、音楽を止めるに至った青年の物語だ。彼はその過程での苦しみや葛藤、諦めそれらを全ての感情をエルマという存在に向けた楽曲にした。加えて初回限定版には合わせて手紙とn-bunaが実際に撮影した写真が一緒に封入され、彼の物語をより一層リアリティのあるものに仕上げている。歌詞の中にも実際彼がみた景色や、本当にあった話が織り込まれ現実と虚構の間で揺れ動く。あまりにも綺麗で感傷的なこのコンセプトアルバム、何度もなんども聴いてどっぷりヨルシカの世界に浸って欲しい。

それでは長い前置きはこれくらいにして、早速レビューをしていく。今回はアルバム順ではなく、日付順に感想を書いていこうと思っている。音楽を辞めた彼の物語をあたまから考えていきたいのだ。

はじまりは3月の日付の手紙から。芸術と生活の話がそこには書かれている。ソレらの関係性みたいな話。その後ろに続くのが「藍二乗」。光で溢れるMV。2018年の年末、だいたい半年は前に公開されていて、前々から聞いていた人もたくさんいたのではないかな、と思う。澄んだ空の青が、茂った葉の緑が、揺らぐワンピースの白が、どれも眼に眩しい。走るメロディ。その中で歌われる「止まったガス水道 世間もニュースも所詮他人事」という歌詞が印象的に響く。芸術は生活とは離れたところにあるはずで、それでも私たちは人間である限り、ご飯を食べお風呂に入り睡眠をとって、生活をしている。必ず日常の中で、非日常の存在である芸術は出来上がっていく。その事実からは逃れることはできない。だからこそ音楽は彼の見た世界・日常で形作られるのだと思うのだ。眼に映るもの、肌で感じるもの、耳で気付くもの。エルマとの生活にある温度、思い出、音、時間、におい、それらが混じり合ってでしか、芸術は完成しない。「ただ、ただ目蓋の裏側 遠く描く君を見たまま」なんてまさにそうじゃないかな。なんてそんなふうに思ったりする。

4月の日付、比較的簡素な、近況報告みたいな手紙が2枚。次に続くのが「誌書きとコーヒー」だ。エルマがいなくなった後の生活の詩なのだと思う。あくまで憶測なのは彼女の名前が1つも詩の中にはでてこないから。君がいなくなってしまった、その後の話。サビで繰り返される「わからないよ」の言葉。まるでだだっこが地団駄を踏むような羅列。曲が進行していく中で、その歌い方が変化して切実になっていくことが苦しい。出来事はきっと、過去になった瞬間に、変化していく。言葉や音楽といった何かで表現することによって、その人の主観がまじっていくし、脚色されていく。正しい過去がなにかわからなくなっていく。だから僕は「想い出になる 君が詩に成っていく」なんていうのだろうと思う。もちろん詩にしてもしなくても、記憶の中の彼女は消えていく。でもそうでもなければ、彼女がいない苦しみは永遠に薄れることはないし「想い出になる 君が邪魔になっていく」わけだ。だからこそ彼は「想い出になれ 君よ詩に成って往け」と綴るのだ。君を遠い過去にするために。

 次は5月の日付の手紙。スリの話。人生の賞味期限の話。それに続くのが「五月は花緑青の窓辺から」。この詩はどこか熱っぽい。音楽へ向かうあつさがある、ような気がする。でもこれは多分ソレが消えていく話だ。何かを作るには大抵、熱がいる。否、いいものを作るには熱が必要だ、といったほうがいいかもしれない。惰性でも何かを作ることはできなくはないから。でもそんなのはとっくに期限切れの引き伸ばしの芸術で。でも多分作らなくてはいられないのだ。どんなに謗られようと。傷つこうと。「さようなら 青々と息を呑んだ 例う涙は花緑青だ 黙ったらもう消えんだよ 馬鹿みたいだよな」とそんな自分を自嘲的に笑う。怒れなくなっていく。でも本当は、「笑うなよ 僕らの価値は自明だ 例うならばこれは魂」であるはずなのだ。彼は1つずついろんなものを手放していく。続く手紙では作品への感情や流す涙のことが皮肉っぽく書かれていた。

 初夏がはじまる時期の手紙には芸術の意味や正しさについて彼の考えがつらつらと重ねられている。そんな頃の詩は「六月は雨上がりの街を書く」だ。n-bunaがこの歌詞を書いた時、本当に雨が降っていたと聞いた。石畳の街を優しい雨が優しく濡らすように、しっとりとした1曲に仕上がっている。なんとなく藍二乗の対みたいな曲で、「今の暮らしはi^2 君が引かれてる0の下」「笑った顔だって書き殴って」なんて彼女のことがちらちらと垣間見えるようだ。旅がはじまってから数ヶ月経って、彼女との生活は随分と遠くに行ってしまった(旅の前から遠かったのかもしれないが、詩にすることによってなおさら、である)。その経過がうかがい知れるようなそんな詩である。

 そして今まで必ずあった手紙を挟むことなく「踊ろうぜ」という楽曲がすぐに書かれている。詩の名前に日付がない(なんとなく明示的な気もする)。この歌詞の中に「伝えたい全部はもう 夏も冬も明日の向こう側で」の一節を見つけることができる。ついに彼の彼女との過去は大方伝えきってしまって、ここからの詩はもはや燃えかすみたいなものなのかもしれない。彼女との想い出に火をつけて、燃やしながら、言葉にしていく。そのあと煙になって上へ登り、そうやって情景は消えていく。そのあとに残った灰を寄せて集めて縋るのだ。「思い出の君が一つも違わず描けたら どうせもうやりたいこと一つ言えないからさ」なんて。それまで精一杯踊るのだ。苦しいから、どうにもできないから踊るのだ。完全な終わりが来るその日まで。いろんなことがどうでもよくなってしまっていても。

続く「夜紛い」にも日付は入っていない。歌い出しから「等身大を歌うとかそんなのどうでもいいから 他人よりも楽に生きたい 努力はしたくない」なんて綴る。それはあまりに開けっぴろげで、今までを馬鹿にすらしているようだ。その実そうなのかもしれない。芸術のあり方が彼の中でどんどん変化していく。今まで大切にしていたものがどうでもよくなって、残るのは衝動的で、感覚的な想いだけ。もっともその想いが彼の中で一番大切で、余計なものを削ぎ落とした本当の形なのかもれない。「君が後生抱えて生きていくような思い出になりたい」ただただこれだけ。君にとって特別な存在であれれば、よかったなんて。どんなにちっぽけで、切実な願いだろうか。

その次には「パレード」。この曲もMVがYoutubeではすでに発表されている。藍二乗とは違ってイラストで描かれた主人公。その一方で顔は垂れるペンキのようなもので覆われていて、表情はうかがい知れないのは同じ(合間でちらとのぞいたりもするが)。前に比べて間違いなく色彩はぼんやりと濁ってしまった。きっとどんどん君がわからなくなるのだ。「歳取れば君の顔も忘れてしまう」のだから。でもそのことをだんだんと僕も受け入れているのだろうと思う。音楽を辞めるためのこの旅が、伝えたいことを詩にしてしまうまでのあと少しが、きちんと続きますように。「もう少しでいい もうちょっとだけでいい 一人ぼっちのパレードを」僕と僕のたくさんの記憶たちを引き連れてこの物語は終わりに向けて確実に進んでいく。

 季節はついに8月を迎えた。「八月、某、月明かり」久しぶりに日付入りのタイトル。この曲は「八月某、月明かり、自転車で飛んで」とあるようにn-bunaが見た月があんまりにキレイで、それが元になって生まれた作品でもあるらしい。ともかく内容は今までずっと続けてきたこの旅の歌の振り返りみたいな詩だ。歌詞はぐちゃぐちゃで始終「最低だ 最低だ」って喚いている。「君を形に残したかった」と語った舌の根も乾かないうちに「君も、何もいらない」なんて言う。そしてついに明確な死の香りがする。これは生命活動の終わりか、芸術活動の終わりかは定かでないけれど。僕は、彼女が大切で、たまらなくて、だからこそ憎らしくて、でもどうしようもなく愛していたのだと思う。はじめてその悲しみを表してくれたように思う。彼女を失った悲しみはもちろん伝わってきていたけれど言葉にしたのはここがはじめてで。「最低だ 最低だ 愛おしくて仕方がないわ ドラマチックな夜で僕を悼みたい」やっと終わりの覚悟が決まったのかもしれない。悼むのは手放したからこそできることなのじゃないかな。

「だから僕は音楽を辞めた」の番。ついにこの時がきてしまった。終わりの時だ。これが終わってしまったら彼はどうなるのだろうか。アルバムが発売されるほんの数日前にこの詩のMVが発表された。今まで発表された2つとも違う描き方で、それでもやっぱり僕の顔は見えない。ただ君の顔は見える。さて今まで語られることのなかった彼女との別れの物語だ。つまるところこの終わりの旅のはじまりだ。しかし本当はこの詩の中では実はあまり彼女のことは語られない。イラストで彼女と僕が並んで立っているシーンがあるけれど、「君の目を見た 何も言えず僕は歩いた」のところからは終わりの「何度でも君を書いた」まではそのほとんどが、懺悔みたいな吐露でしかない。多分きっと彼の中の芸術は途切れてしまった。この詩の役割は長い日記の最後の句読点でしかない。僕の音楽はついに事切れてしまった。

エルマ。君に向けた詩。今までの全てがそうだったのだけれど、ついに君の名前が詩のタイトルになった。なんてなんて優しい歌なのだろう。もうついに君への想いともお別れだ。多分この詩は彼にとって芸術とか、そんなものではなくて、ただの小っ恥ずかしいようなラブレターで、だからこそ、こんなに混じりけがなくて綺麗で、美しいのだ。

 約1時間のなかに詰まったあまりにも濃密なストーリー。彼が音楽をやめてしまう物語がそのアルバムには綴られている。現代は何かを発信することが容易くなった。その裏できっと好きだった何かを嫌いになって、やめてしまうことも爆発的に増えたのではないだろうか。彼のようなことは多分さほど珍しくもない。でもそれはその人間にとって確かな終わりで、死で、もっともっと大切にすべきことで、悼まれてよいことであるべきだ。つまりは彼の終わりを通して、私たちが感じてきた「死」には花が手向けられたのだ。

彼の物語は終わるが、ヨルシカの物語はまだまだ決して終わらない。2人がこの後どんなストーリーを紡ぎ出していくのか、これから楽しみである。

ヨルシカ – 藍二乗 (MUSIC VIDEO)

ヨルシカ – パレード (MUSIC VIDEO)

ヨルシカ – だから僕は音楽を辞めた (MUSIC VIDEO)

だから僕は音楽を辞めた (Album Trailer)


尾方里菜

尾方里菜デザイナー・ライター

投稿者の過去記事

表現することが好きな、どこにでもいる普通の人。思い立ったらなんでもやりたい。我慢できない性質(たち)。
現在はデザイナーとして修行しつつ、このメディアでライターも経験させていただいております。
趣味は写真を撮ることと絵を描くこと。好きな言葉は「鳩だって死ぬところを見るまで不死身だ」よろしくどうぞ。

特集記事

LIT

コラム記事






Staff Recommend

PAGE TOP