神西亜樹「透明な林檎」 Vol.19 – ゲット・ハイ

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「それ、なんだい」

回収員が私のグラスを指さした。
ネグローニさ、と私は応える。イタリアのカクテルで、ジンとカンパリとベルモットで作る。加えてこの店のものにはレモンピールが入ってる。すっきりした後味が好みだ。

「じゃあ、俺もそれひとつ」

中華が食いたい、と私は思った。餃子を食うだけ食って、薄めたエスプレッソでうがいでもして油を切って、憎たらしく吐き捨てたい気分だ。どうして会合の場がいつもバーなんだ。回収員は、特に酒に詳しいわけでもないくせに。

「BGMはどうする?」

酒を待つ間、回収員は決まってジュークボックスをいじっている。見たこともないものを眺める子供のように、色々な角度から隅々までボックスを確認し、角の錆びを爪でこすったりしながら、私に選曲をうながす。

チェット・フェイカーの新曲、と私はつぶやいた。

Chet Faker – Get High (Official Music Video)

流れている曲をしばらく聴いていた彼は、何度かノるように足踏みした後、満足そうにうなずいた。
「いいね。バーっぽい」

そうかな。

「チェット・フェイカーって、まだ活動してたのかい?」

ここ数年は本名で活動していたんだよ。
で、急に名前を戻して新曲を出した。理由はわからない。

「チェットの方が売れるからだろう? 正直、名前を変えて知名度を捨てるなんてバカだなって思うね。合理的じゃない」

そう決めつけるのはよくない、と私は思う。その人にどんな物語があるかなんて、他人にはわからない。
たとえば戦災孤児を拾った彼は、孤児が戸籍を持っていないことに気づき、自分の戸籍ならびに本名をプレゼントし、己は架空の存在として生きることを決めたとか、
結婚相手の父親と本名が被っていて嫌がられたからいっそ捨てたとか、
亡き親友に捧げるため、彼の好きだったアーティスト名――そう、彼はそのアーティストが自分の親友だということは知らなかったんだ――で曲を出したとか、
いくらだって可能性はある。わざわざつまらない決めつけをする必要はない。

「そういうもんかね」

私の友人に、学生時代、生徒会長をやっていた女子がいてね。真面目で、誰に嫌われるでもなく、何を嫌うでもない人だという印象だった。でも大人になって再会したとき、彼女は当時のことをこう話すんだ。私は胸が大きいことでいじめられていた。同性には絡まれ、異性には好意の目で見られ、水泳が嫌いで仕方なかった。そんな風に生きてたなんて、私は知らなかった。

「ふうん。ところで」

回収員は早々話題を切り上げる。私の話なんかより、ネグローニの丸氷の方が気になるらしく、色々な角度から眺めている。

「カウント、減ったんだって?」

僕はうなずく。”3回だったのが、2回だ。直に一回になるだろう”。

「死んじゃう?」

死にはしないだろう。イニシエーション・ダイヴは心理的な負荷はかかるものの、廃人になってしまったという話は聞いたことない。あくまで儀式だ。

「まあ、無茶はしないに越したことはないが、決着のときはいずれ来てしまう。自分でなんとかするしかない。キミの物語は人にはわからない。そうだろ?」

私は肩をすくめ、しっぽを倒した。グラスの中の丸氷は、空気に触れていた頭が溶けて、まるで林檎みたいなかたちだ。

Chet Faker – Gold (Official Music Video)

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神西亜樹小説家・シナリオライター

投稿者の過去記事

2014年、『第一回 新潮nex大賞』大賞受賞。新潮文庫nexよりデビュー。
最新作『東京タワー・レストラン』発売中。
ショートシナリオや劇場用映画脚本協力等も担当、シナリオメイキングに幅広く携わる。
昔はボーカロイドで楽曲を制作しており、作詞から挿絵、動画まですべて自作していた。音楽は今でも愛好。
ユーモラスで優しい話が好き。

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