大橋トリオ / ミルクとシュガー duet with 上白石萌音 (Music Video)
まただ。
「どうした?」とジジノスケが声をかけてくる。僕はPC画面の検索窓を指差した。そこには弾き語りのコード譜を探そうと思って入力した、ポップスの曲名が表示されている。『曲名 コード』で入力すると、だいたいの曲の簡易コード譜が出てくるのだから、便利な世の中である。ただ、そういった検索をすると決まって『あるサジェスト』がいっしょに表示されるのだ。先ほどの「まただ」も、この『あるサジェスト』がまた表示されたことを指しての発言だ。
それは『意味』だ。だいたいのポップソングは、検索窓にその曲名を入れると、予測候補に『意味』と出てくる。『曲名 意味』といった感じで、かなり多くの人が、歌詞の意味がわからず、検索しているわけだ。
「これが気になるのか?」と猫のジジノスケがひげを揺らす。
いや。
昔は思うところがあったけど、いまはそんなに気にしてないよ。今日はたまたま反応してしまっただけ。
「昔って、曲を作ってた頃の話か?」
うん。当時は、歌詞の意味がわからず調べている時点で、それはキミに向けて作られた歌ではないだろう、なんて冷たいことを思ったものだった。
「まあお前は歌詞の意味につまづくことがないから、共感できないのかもな」
一応、国語に強くないと話にならない職業に就いているからね。
ただ、今は考え方が変わったよ。意味がわからないもの知ろうとする姿勢はすばらしいし、否定されるべきものじゃない。
「丸くなっちまったな・・・」
なぜこの猫はガッカリしているのだろう。
それに、実際問題、歌詞というのはわかりにくい構造をしている。すくなくとも小説より。
「わかってもらう必要がない言葉だからな」
その通り。小説はすべての展開をわかってもらう必要がある。たとえば犯人がわかったとき、なぜソイツが犯人なのか、そしてなぜそいつが犯人だと「盛り上がるのか」、ピンときてもらわないと、読者が最大限楽しめない。理解度が高いほど楽しいのが小説だ。伏線を回収するには、伏線を知っておいてもらう必要がある。
だけど歌詞は違う。歌詞はわからなくとも彩りになる。曲はあくまで音楽が主体としてあって、歌詞はそれに付随するカラーだ。聴き手の解釈でカラーは変わる。理解できようができまいが、受け手が好みのカラーさえ感じられればよい。むしろ理解できないほうが、たくさんの色を持つ歌詞になるかもしれない。
「わかるように作る必要がないのが歌詞だ。そりゃ、わからん奴がいて当然なわけだ」
わからないことの持つ奥行きというのは、僕も好きだった。推し量るおもしろさだったり、曖昧だからこそ生まれる可能性だったり。
でもその歌詞と小説の違いのせいで、僕は作家として随分苦しんだ。小説はわからないなんてことがあっちゃいけないから、全てのものに光をあてる必要がある。でも僕はこれをかなり見逃してしまうんだ。何せ作詞という行為から文字書きをはじめ、作詞というルールが体に染みついてしまっているから、どうしても曖昧さが残って、それを良しとしてしまう。それがいいと感じる。
「べつにそういう物語があってもいいんじゃないかね」
ジャンルによるね。僕の書いているジャンルはどうなんだろうな。とにかく、現在進行形で苦労しているよ。
「おっと、話の途中で悪いが、呼び鈴が鳴らされたぞ」
何回だい、と僕は尋ねた。
「二回だ」
僕は玄関へ向かうべく立ち上がった。