「よお、旦那」
バーカウンターに座っているのは私だけで、席はいくつも空いていた。だと言うのに、男が私の右隣に座る。口内に収まらないほど長い舌を、不気味にだらりと垂らし、大きな口の端を釣りあげている。何もしていないのに、ただそこにいるだけで相手を威圧し、委縮させるような男だった。
「一人かよ」と男が言うので、知ってるだろ、と返す。
「この世界で飲み仲間は作りようがないだろうからな」
左隣に女が座った。長い前髪で両目を隠し、何処を見ているかわからない。男とは反対に控えめについた小さな口で、ぼそぼそと喋る女だった。
「はは、ちげーねえ。おいマスター。NIKIかけてくれ」
NIKI – Selene (Official Lyric Video)
ジュークボックスくらい自分でかけろよ、と僕があきれる。
「無駄に歩きたくねえんだよ。舌を噛んじまうだろ。なに、カクテルならカヤが作ってくれるさ」
「私はお前みたいな無礼者ではない」と女が言い、「ああ、椅子の上でこじんまりしてるのが趣味だったな。根暗女」と男が返す。キミらが今日の回収員?と僕が訊くと、二人同時にうなずいた。
「第二層に入ってからしばらく経ったからな。人選もこだわる必要が出てきた」
「ま、イニシエーション・ダイヴっつったら俺たちだ。作者のあんたが一番知ってることだろ」
まあ、そうだね。
そっちの世界じゃ、どれくらい時間が経ったのかな?
「二年ほどかな」
だいぶ経っているな、と私は思った。果たして私は、それほどの期間このような状態にあって、健康に生きることが出来ているのだろうか。
「そもそも、どうしてこんなことになっている」
私は首を振り、グラスを持った。人生というのは予測できないものだ。このグラスの中の氷がどう溶けていくかなんて誰にもわからない。それと同じさ。
ただ二年をかけてわかったこともある。たとえば、アレに害意はない。
「アレって、あんたの格好した、アレ?」
私はうなずいた。アレはおそらく、私から作られた抗体のようなものだ。あの椅子に座って、私という個が侵されるのを守っている。
「・・・イニシエーション・ダイヴというものは、内世界への潜航だ。自己の別側面が現れることはある」
カヤが顎に手を当てながら言った。目元は見えないが、思案しているのはわかる。
「俺やカヤみたいにな」
「だが、自分自身の姿をした抗体というのは、なんというか、直接的すぎないか?」
「会話はしやすいんじゃね?」
それがそうでもない、と私はため息をつく。自己と限りなく近い人格だと、思考が似通ってしまって、会話が広がらない。結論がいつも同じになってしまって、答えにたどり着けないんだ。
「そういうもんか・・・おい、マスター。次はBrother Zuluだ」
Brother Zulu
「アンダ、いい加減にしろ」
「うるせえ。嫌なら耳塞いでろ。そうさ、お前は目じゃなく耳を塞ぐべきだったんだ」
キミたちは本当に似ていないね、と私は言った。同一人物なのに。
「それが本来のイニシエーション・ダイヴの効能だよ」
「そう。違うからこそ対話に意味が出てくる。アンタが特殊なんだ」
やれやれ。どうしたもんか。
「角度を変え続けるしかないだろうな。思いつく限りを試し続けるしかない。生物というのは、常に形を変える。手が尽きることはないだろう」
気が遠くなってきたよ。
「そりゃ飲みすぎなんだよ! はは!」
シリマは元気かい?
「元気だから、俺らがここにいんのさ」
「そして、お前を助けているのさ。未来の道を舗装するために過去はある」
優しい言葉をかけるときの、彼らの魂胆はわかっている。私の気分を持ち上げて、一杯おごらせようとしているのだ。
まあ、いいさ。仕方ない。
マスターに声をかけ、リンチバーグ・レモネードのオーダーをふたつ入れてやる。