「音楽をかけよう。THE CHARM PARKが良い」
僕はジジノスケの指示に従って、Spotifyからタイムレスを流した。
THE CHARM PARK / タイムレス [Official Music Video]
「そういえば、神西。俺は一度だけ林檎を食ったことがある」
空想猫のジジノスケが欠伸まじりに言った。猫って林檎食べられるんだっけ、と僕は首をかしげる。
「お前は猫が何を食うかに頓着しないから、甲斐がないんだよな。叱られるものを隠れて食うから美味いのに…林檎も、前の主人の家にいた時にこっそり食ったんだ。いま思うと、アレが前の家を出たきっかけになった出来事かもしれんな」
林檎を食べて楽園から追放される。アダムとイヴみたいだ。でも彼はそんな大層な存在ではない。ただの空想猫のジジノスケである。モップみたいな見た目で、黒い色をしたふてぶてしい猫にすぎない。
「だから空想猫という呼び方をやめろ。実在を疑われるだろ」
僕は手元に集中した。
People in the boxのCDだ。彼らのジャケットは統一感があって、一緒にあると美しい。信号機と一緒だ。あれは青色と黄色と赤色が同じ大きさで均等に並んでいるからこそ、市民が言うことをきいている機械だ。バラバラだったら誰もあんな、人を見下している奴の言うこときいたりしない。
ちなみに赤いジャケットがGhost Apple。収録曲の名前はすべて曜日で、僕は月曜日と火曜日、土曜日、日曜日をよく聴く。
「これで全部か?」
いや、と僕は首を横に振った。最近のCDなんかは買っていない。サブスクで聴けるからだ。サブスク――サブスクリプションとは、いわゆる定額制サービスのこと。まあ厳密には違うのだけれど、日本ではおおむねそういった使われ方をしている言葉である。
音楽配信、動画配信、電子書籍。サブスクが流行してからというもの、僕は物質を手元に置くことをやめていた。ひとつは、置き場所に困るという切実な事情から。もうひとつは、物質は劣化してしまうから。
「ドライな考えだな」と猫が言った。
「作品というのは、その手触りも含めて愛でたいものなんじゃないのか?劣化だってひとつの愛の歴史だろう」
それは、そういう価値観の時代で生きているから生まれる感覚に過ぎないよ。
「?」
たとえば書籍について考えよう。僕は一応、小説家なわけだし。
いまこの時代では当たり前に紙が使われているけど、未来ではそうじゃない可能性は高いわけだよ。紙だとコストがかかる。印刷費や流通コスト、ほかにも色々ね。
だから最後には全てがデータ管理される。紙はなくなる。
そうなってからさ、紙を見たこともないような世代が本について考えたとき、彼らが紙の本を選びたいと思うかな?紙にはぬくもりがあるとか、手触りが好きとか、感じると思う?
「思わないだろうな。何せその感覚を知らない」
そういうことだ、と僕は肩をすくめた。僕らが物質にこだわっているのは、単に今が物質の時代だからだと言うだけで、これは普遍的な感覚ではない。
「だが、俺たちは紙の時代の人間で、紙のなくなった未来世界の人間ではない」
君は猫だ。
「訂正。未来世界の猫ではない。それに物質への欲求が普遍的で――タイムレスである必要もない。ほら、今THE CHARM PARKが良いこと言ったぞ。『今だけの時間を 大切な時間を』ってな。結局さ、この時代に一番合った喜びこそが正義だろ」
ジジノスケの言うこともまた、その通りなのだ。それぞれに合った形で楽しむのが一番だし、「現代流」なのである。
だから僕はジジノスケが週刊少年ジャンプを毎回電子化せずに分厚い紙の束で買ってくることに文句を言わない。
文句は言わないけど、しかし買うなら一ページくらい読んでほしいなとも思う。
「何を言ってるんだ。ジャンプは下に敷くためにあるのだろう」
猫にとってはね。
実際の話、紙の本がなくなるなんてことは、まだしばらくはないだろう。レコードの流行というのを見ても、レトロなものには根強い魅力がある。時代が連続している限りは紙は心惹かれるものであり続けるし、紙のない完全電子化時代になっても、しばらくはプレミア版として「印刷本」が売られるに違いない。
僕は老いた自分が限定プレミア印刷本を手にし、感慨深くページをめくっている様を想像した。それは中々に心地よい想像だった。きっと今より紙が好きだと感じるだろう。楽しみな未来である。
「おい、玄関で呼び鈴を押してる奴がいるぞ」
猫が僕に報告した。「何回押してる?」と僕が訊くと、「三回」と答える。
どうやら時間が来てしまったようだ。僕は玄関へ向かうべく立ち上がった。