トクマルシューゴ OFFICIAL MUSIC VIDEO
「信じられんな」とジジノスケが言った。
「この曲、十二年前の曲なのか」
ジジノスケは我が家に住み着いている黒猫だ。毛が長く、足が短く、いつも世界を小馬鹿にしたような顔をしている。彼からすれば、猫じゃらしも、国際条約も、水道水も、等しく馬鹿で無知なものなのだ。世界は彼を中心に回っている。僕はそのことに意義を唱えるつもりはない。世界が僕の加担なく、勝手に回ってくれるなら、これほど楽なことはない。その間、僕は読みかけの北村薫のページを繰りながら、手元の珈琲の湯気をふぅふぅ揺らしていられる。
「見ろよ。このMV。画質がこんなに荒いのに、ギターの音が瑞々しい・・・」
この言葉にもまた、僕は意義を唱えるつもりはなかった。当時のエンコード制限を考えると信じられない綺麗さだ。十二年前の曲だと言うのに、今のハイファイを極めた音楽たちに聴き劣りしない。
『パラシュート』はその類まれな美しさをもって、十代の頃に受けた感銘と変わらないものを今も僕に届けてくれる。
「はじめてこの曲を聴いたときは衝撃だった」
僕もだ、と思った。一音目からグイっと襟首を捕まれ、駆け足をせがまれ、そのまま迷う間もなく一緒に踊らされてしまうような曲だ。軽快なアコースティック・サウンドのロケットは、他にない軌道を描いて打ちあがっていくようだ。高く高く、上昇していくような曲なのに、しかしタイトルは『パラシュート』。実は僕らは途方もない速度で風を切り、ステップを踏みながら、無自覚に落ちている。
「どうしてか、落下する曲というのは気持ちが良いものだよな」と猫が言った。
オアシスの『フォーリング・ダウン』とか、シロップの『クロール』とか?
「チョイスが暗いぞ。性格が出ている」
さておき、落ちるのが気持ちいいのは当然だよ。
ほら、恋に落ちるって言葉があるじゃないか。
「ああ・・・なんとなくわかったぞ。猫は無抵抗に腹を見せるとき、死を連想するが、幸福も連想する」
まあ、たぶんその理解で合ってる。
「そういえば、最近この手のアコースティック・サウンドは聞かなくなったな」
単純に流行りの問題だな、と僕は言った。それこそ、トクマルシューゴが現れた時代はアコースティック・サウンドが流行っていた。星野源はサケロックをやっていたし、ナルトのエンディングは明星だったし、ジブリではつじあやのがウクレレを弾いていた。栗コーダーも忘れてはいけない。アカペラもトレンドだった。他にもポストロックが・・・
「おい、その概説、十年以上の範囲を包括してないか?時代にブレを感じるぞ」
ともかく、アコースティックに自己主張があったのは確かだ。
ネット・シーンのアーティストもそのことには気づいていたから、積極的に色んな楽器が取り入れられて、ごった煮のような音楽が生まれ、混沌としていたよ。
「あー、そういえばグロッケンやティンパニを使った曲が多かったな」
僕はうなずく。
その二つに関してはインディーズの外側にまで波及して、メジャーなロック・ポップシーンでもよく使われた。アルバムが出たら必ず一曲は使われる、というくらい。
「お前もよく使っていたな。大学時代、ハロウィンの曲を作ったりもした」
自作曲③(ハロウィンソング) pic.twitter.com/4k17HRNf7j
— 神西亜樹 / デン (@denugrw) October 6, 2019
何か言い返そうかとも思ったが、やめた。あの頃の僕が鉄琴や木琴ばかり叩いていたのは事実だ。
とはいえ、洗練とは程遠い作曲だった。だからこそ『パラシュート』の三分間を味わうたびにすごい曲だと思い知る。この曲は時代に囚われることなく、十年後でも百年後でもきっと心地よく落下し続けているだろう。
「で?」
なんだよ。
「何か思うところがあるんだろう?お前が『瑞々しい』曲を聴くときは、決まって何かストーリーを連想しているときだ。坂本真綾やイモージェン・ヒープや、オブラディ・オブラダを聴きながら、お前は児童文学やジュブナイルの話をしたがる」
おっと、玄関で呼び鈴を押してる奴がいる。どうやら時間が来てしまったようだ。僕は玄関へ向かうべく立ち上がった。
「おい、こら・・・逃げやがった」