僕は甘いものが好きだ。
MIKA – Lollipop (Official Video)
「知っているぞ」とジジノスケがつぶやく。
ジジノスケは我が家に居つく空想猫だ。黒いモップのような見た目だが、掃除は得意ではないし、何なら一日に一度、ペン立てを倒さないと気が済まない散らかし屋だ。
「俺の通り道にペン立てがあるのが悪い。で、何の話を始める気だ?」
いやさ、この前、話しそびれたことがあったろう。
正しくは僕が話を切り上げたのだけど。
というのも、この話――本の話をするのは気恥ずかしさが伴うのだ。だって、音楽の話は気軽にして良い空気があるけれど、本の話なんて誰が聴きたがる?
「そうか? 音楽も本も、趣味の話だろ」
前者は皆が持つ趣味で、後者は一部が持つ趣味だ。
「読書を特殊性癖のように語るな。というか忘れがちだが、お前は小説家じゃないか。本の話こそするべき人種なんじゃないのか」
だからこそ、気恥ずかしいのだ。僕は生来、自分語りが苦手だ。生粋の秘密主義者なんだよ。大戦中なら良い工作員になれたと思う。
そんな僕が、最近は自分のことを話しすぎている。その上でさらに生業の話なんぞしてよいのか・・・そういう迷いがあったんだ。この前も、今もね。
「ふああ」
ジジノスケは欠伸をした。それで僕も吹っ切れた。
「ああ、その本は久しぶりに見たな」
チョコレート・アンダーグラウンド。アレックス・シアラーの名著だ。
「なるほど、甘いものの話だな。しかし当然のように持ち出したが、アレックス・シアラーなんて日本では知られちゃいないだろ」
そうでもないさ、と僕は肩をすくめる。
ちょっと調べただけでも、堀北真希や上野樹里、多部未華子なんかが好きな作家として名前を挙げていたよ。
「イギリスの、よくわからん児童作家を?」
ああ。それに、僕がとりわけ気の合う友人たちは皆アレックス・シアラーを知っている。
「だが俺は知らん」
仕方ない。すこしだけ概説しようか。
アレックス・シアラーは児童文学に大別されるような作品を書く作家だ。僕が学生時代、彼に嵌まっていた時期は特に多産で、年に二作は作品を出していたし、それらは金原瑞人御大の手によって速やかに学校の図書室に送り込まれていた。
作風は夢があり、影があり、「子供が大人になっても覚えておきたがる」小説。
人によって代表作が分かれるタイプの作家ではあるけど、特に有名なのが(そして僕の記憶にも残っているのが)『青空の向こう』『スノードーム』そしてこの『チョコレート・アンダーグラウンド』だ。
「実は日本でアニメ映画化されてるんだよな。話題にならなかったが」
僕は眉をひそめる。
「ともかく、件の本はお前にとって、格別に心に残る物語だったというわけか」
さあ?
「さあ!?」
中学時代に読んだ本だし、細部は覚えてない。ざっくりとした流れだけだ。
「ロクに読み返してもいないって?それでよく、一番として名を挙げられたな」
それこそが、今回の話の肝なんだ。
見てくれ、と僕は猫の前で本を開く。
「チョコレートだ」
そう、この本は、全部のページがまるでチョコレートみたいになっている。ページをめくるたびに、思い描いたチョコレートの香りが匂いたつような、そんな本だ。
このあらすじなんかも見てほしい。
数行の文章がもうたまらなくワクワクするじゃないか。おかしな法律?チョコレートの密売?仲間たちと作った地下チョコバーでチョコレートを思いっきり味わう?
この文章を読んで、夢を見ない子供はいないよ。
「甘党の子供は、な。それ以外の子供や猫にとっては、胃もたれもんだ」
別に甘いものだけがワクワクさせるわけじゃないぜ。「地下」とか「密売」とかを、子供がやってるってシチュエーションが、全部ワクワクなんだよ。わかるだろ。密造品のことはブートレグと言うってことを、僕の世代の人間はこの本から学んだのさ。
この注釈は金原さんが日本語訳のためだけにつけたものかもしれないけれど、見てくれよ、このバカ丁寧な説明。登場するお菓子には、こうやって全部説明が入ってくる。僕は当時からこれを笑いながら読んでいた。笑いながら、ああ、なんと愛のある本なんだと感じた。
「これは現実にある銘柄なのか?」
一文字違ったりもするけどね。ちなみに僕は、作中で言う「マーズ社」のミルキー・ウェイが大好きだよ。残念ながら、他はなかなか日本では入手しづらいチョコだ。
猫が口をいーっとやった。アレは猫の世界では「歯が欠けるぞ」という警告を表す。虫歯になるぞとからかっているのだ。
要するに、と僕は言った。
『チョコレート・アンダーグラウンド』がこうまで僕の心に残っているのは、その物語によるところだけじゃないってことだ。装丁、テーマ、ちょっとした書き癖やユーモア、そして夢と愛情。そういった要素が、子供時代の僕の前に豊かに広がっていき、熱中させ、「本って最高」と思わせてくれた。だから特別なんだ。
「神西にとっての『本』の指標であると」
そうだね。そうかもしれない。事実、僕は作家としては児童文学に近いジャンルのものを書きたいと志しているし、登場人物には子供や、子供視点を出したいという思いが強い。
前作では食事の話を書いた。そして、子供を登場させて、間食と呼べるデザートを食べさせた。実はあの展開は、僕にとっては特別な意味をもった展開だったというわけだ。
「ハハ、なるほどお前の言った通りだったな。語りが止まらん」
僕は肩をすくめる。
この本についてはまだ話せるけれども、自分語りはこの辺にしよう。
「おっと。見計らったかのように、玄関で呼び鈴を押してる奴がいる」
猫が僕に報告した。「何回押してる?」と僕が訊くと、「三回」と答える。
どうやら時間が来てしまったようだ。僕は玄関へ向かうべく立ち上がった。