「透明な林檎に心当たりがないのはわかった」
僕は肩をすくめる。
「だったら規模を縮めて、とりあえず『林檎』について考えようじゃないか」
先程から尋問官を気取って僕を質問攻めにしているコイツは、空想猫のジジノスケである。黒毛で、モップみたいな見た目で、肉付きは良いほうだと思う。いや、案外、毛をすべて刈ったらほっそりとした体が現れるのかもしれない。その辺りは不明だ。なにせ、僕はジジノスケに直接触れたことがない。
理由は不明だが、近頃ジジノスケは「透明な林檎」を話題に出したがる。僕からすれば興味のない話を繰り返されてうんざりなのだが、無視し続けて解決する話でもないので、適度に付き合うことで溜飲を下げてもらうことにしている。
林檎といえば、と僕は頭に浮かんだ人名を口に出す。
椎名林檎だろう。
「そう、それだ。真っ先に出そうな名前なのに今まで出なかったものだから、お前が椎名林檎の話をするのを避けているのかと思ったぞ」
別に避けてなんかないさ。僕は椎名林檎が好きだ。
というか、誰だって好きだろう。少なくとも僕の世代のミュージシャンで、彼女から一切の影響を受けていない人なんて稀だ。それくらいの相手だ。彼女の音楽に宿る憂いや、破滅的なエネルギーは代えがたい。電気のついてない部屋で飼われてる水槽の金魚みたいだ。闇の中、金魚が何を睨んでいるのかは誰にもわからない。きっと本人にもわからない。そんな曲。
椎名林檎 – 自由へ道連れ
自由へ道連れのMVをモチーフにしたキャラクターはいつか作りたいなと思っているし、丸の内サディスティックは僕がつい弾き語ってしまう三曲のうちの一曲だ。個人的に、生活に根付いているアーティストの一人だよ。
「じゃあ、なぜすぐ話題に出さなかったんだ」
それはたぶん、僕が男だからだ。
「性別の問題だってのか?」
首肯する。
たとえば、曲中で性への言及があったとき、僕はそこに真の共感を得ることはできない。そして椎名林檎はそういった性差の出る言及を多くする、はっきりと女性の立場で生きてきたアーティストなんだよ。一人称を男にして、広く共感を得ていくタイプのアーティストではない。だから、本当の意味で僕が彼女を理解することはできないし、理解しているように振る舞ったら失礼だと思うね。
「それもそうかもな。言いたいことはわかった」
だから、椎名林檎に関しては、他の人に任せることにしている。僕はただ静かに曲を聴くだけだ。人生と人生の、薄暗い隙間を利用してね。
椎名林檎 – ここでキスして。
なあ、林檎に関しては、音楽から離れて考えるべきなんじゃないかな。
「どういうことだ」
林檎というと、学術的なモチーフに溢れてる題材じゃないか。
たとえば、禁断の果実とか。
「アダムとイブが食って、楽園を追放された、そのきっかけが林檎って説か」
僕はうなずく。
まあ、これには諸説あるんだけどね。イチジクとかブドウとか、ザクロとか、マルメロとか・・・。
「全然ひとつに定まってないじゃないか。有名無実だ」
そう。だから「透明な林檎」――ありもしない林檎の話なのさ。
猫が毛を逆立てた。何やら考えるように口元を舐めていたが、やがてこう言った。
「玄関で呼び鈴を押してるやつがいるぞ」
「何回押してる?」と僕が訊くと、「三回」と答える。
どうやら時間が来てしまったようだ。僕は玄関へ向かうべく立ち上がった。